結論から書けば、川本真琴『1/2』は、荒ぶる魂への鎮魂歌、である。
※川本真琴『1/2』については、記事:象徴学のこころみ ~ 川本真琴『1/2』 ~ 【資料】に、PVと歌詞、また歌唱の比較対象として中川翔子(しょこたん)による歌唱のPVも合わせてアップしてある。それ以外の資料(プロフィール他)は、余計な臆断を呼び込まないために排除。作品は作品のみによって評価されるべきであるから。
とりあえず、まず先に、何でロト(ロト6・ミニロト)の予想方法研究サイトであるここで、いきなり “象徴学” なのかだな
一言で言えば、ロトの当選番号を予想する方法として、出目を “媒介” としてとらえてみる必要があるのではないか、ということなのだがね(もしくは、兆候、として解読する、かな)。易やタロットカード占いにおいて、占うプロセスをランダムなプロセスにいったん委ねてたとしても、結果として占いが成立するのは何故なのか? ということをよくよく突き詰めていけば、ロトの出目と、この世界との相関関係を読み込めそうな予感がある、ということなのだが、異論続出かもしれないな。ま、いいや
象徴というのは、下位次元から上位次元への媒介である、というふうにさしあたり定義してみる。
薬物の蔓延(覚醒剤・大麻・合成麻薬だけでなく、リタリンなどに代表される抗鬱剤も合成麻薬である。また、そういう分かりやすい薬物だけでなく、通常の風邪薬なども薬物である)、学級崩壊、引き籠もり、タトゥ・ピアッシング・リストカットなどの自傷行為、などなどは、すべて兆候として読み込めば、原因は同根である。
学級崩壊は、端的に言えば、人間における暴力性についての考察のなさ、社会が受け皿として新しい世代を受け入れられなくなっている可能性、なによりもケミカル類などによる人体破壊を考えねばならない(おそらくこの原因がもっとも濃厚と推測する)。
引き籠もりは、悪であると断罪される場合が多いが、違う。もちろん、世界からの撤退や逃避としての引き籠もりもあるが、その本質は、世界のありように対して突きつけられた “否” である。行動、がすべてとする立場からすれば、非行動である引き籠もりは世界に対して何ら富を増すこともなく、非生産的であると断罪されるのだが、はたして、いわゆる行動だけが、世界に対する働きかけであるのかは、疑問である(というよりも間違えている)。
学校教育、特に義務教育とは、国家によって、国民を生産するための工場である。管理側が管理しやすくするため、という側面と、実弾を製造する側面、と。管理から考えれば、製品は同質であるのが望ましい。また、命令系統(軍隊におけるそれと考えればよい)として考えれば、刺激ー反応において、条件反射的に従うことが望ましい。
ファッションの一形態(つまり自己表現に分類される、ということだろうが)であるタトゥ・ピアッシングと、リストカットを同列にするのはどうなのかという反論がありうるが、それらは、兆候、として見れば、単なる自傷行為に過ぎず、同列である。基本的には取り返しがつかない自傷行為であり、つまりは、それらは、“小さな死” である。
確か、別役実の『犯罪症候群』という本だったと思うが、犯罪はその社会のレベルを測る尺度となる的なことが書いてあったように思う。確かにその通りである。柄谷行人も、何かを考えてみるには、それが異常な状態である場合を考察してみるべし、と書いてあったと思う。
自殺は、たしか増加しており、殺人は、たしか減少傾向にある、だったと思うが、自殺も他殺も、殺人である。自殺は決して自決とは言わない。自己による自分という最も近しい他者を殺す行為だから、自殺、と書く。
学級崩壊があるのに、少年犯罪は減っているという統計がある。なぜか?
陰謀論側のブロガーたちは、一斉に馬鹿の一つ覚えに、小泉改革なるものが間違えていたと断罪する。外資に買われた売国奴とかね。が、それは見間違えてるよ。意識の進化史という観点から見れば、自由主義的環境は、大いなる可能性を秘めていると言えるから。つねに、ピンチは、チャンスなのだから。
意識の進化史、もしくは、魂の進化史という観点から、以上のすべてを統一的に解釈できそうに思う。学級崩壊と少年犯罪の減少は、一見、矛盾しているが、矛盾していない。荒ぶる魂が、その行く道を見つけつつある、ということだろうから。
コーヒーブレイク
川本真琴の『1/2』を、象徴として読み込んでみたい。10年以上も前の曲だけれど、それを聴いた当時、うまく言語化できなかった。有り難いことにここまで生きながらえてきて、やっと、対象化できそうな感じまでこれたような気がする。だから、その読み込みはまだ完璧にはほど遠いかもしれない。けど、そんなこと言ってたら、いつまでたっても、ずるずるとひきずってしまうだけだしね。どこかで、区切りをつけないと。先へと進めないから。それに、柄谷行人が言う、書くことが生きることであると実感する、がありうるならば、日々、書き続けて、書き換えていけばよいわけだし。
さて、詩を、解釈する方法は定番として、いろいろとある。性的な観点から読み解いたりとかね。文学部にいたのと、一般的基準よりはおそらくそれに関した本は読んでるので、そういった外的基準に関しては、少しは詳しいだろうけれど、そういうのはなるべく無視して(意識的な使用はなるべく控えるか、自分の条件反射的思考に意識的になるか、もしくは、自分の血肉になったものだけを信じて闘うか)、自分だけで、詩と対面してみたいと思う。
次回は、とりあえず、詩をストーリーとして(つまり時間順に受容して)、1ライン1ライン、どう自分が反応するかについて記録してみたいと思う。すでに、いろいろと解釈して、結論は得ているつもりだけど、もう一度、辿り直して、記録していきたいと思う。
まあ、書いてるじゃむ本人以外には意味のない連載になるかもしれないけど、そんなことは知らん、ということで