川本真琴『1/2』に即して書くであろう象徴学のこころみは、とうめん、支離滅裂なものになりそうである。
小学校時代、国語教育に関して、さまざまな疑問に取り巻かれたが、特に不思議(というか不可解だったのは)、二つ。
まず、なぜ、「日本語」ではなく、「国語」なのか。なぜ日本語ではなく、国語、というのか?
もう一つは、詩かエッセイや小説をクラスの誰かが音読したあとに、教師がここの部分は作者が何を言いたかったと思いますかと設問し、クラスの優等生らがすらすらと答えるという場面。意味が全く分からない現象だった。だって、書いてある通りじゃん。行間を読め、という設問なんだろうけれど、それは、教師側の手元にある答えを、すらすらとなぞることができるように “教育” してるだけに過ぎないじゃん、という感触。ある種、トランプゲームの神経衰弱に似たゲームをやってるだけに過ぎないじゃん、という違和感。それの何が面白いのかさっぱり理解できなかったせいで、小学校時代、国語だけは、テストの成績も悪かった。
高校に入学したすぐあとに、担任の教師が、どうして3年間で勉強できんかった奴が、1年浪人して勉強ができるようになるんだ、とのたまったので、高校時代は全く勉強しないことにした。おかげで、学年500人弱中成績順で1桁で入学したらしいけど、半年後には3桁まで急落。親が担任に呼ばれて、こういうことは前代未聞だと憤っていたが、そもそもの発端はお前じゃっちゅうに。
予定通り、現役時代は大学入試に失敗し、1年間の浪人。全国展開している某予備校に入り、それでも勉強せず。自分で3ヶ月だけと時間を区切り、一日30分だけと割り切って集中して勉強し、英語と国語だけは、偏差値63から77と75まで上げる。予備校の指導教官に呼ばれて、お前はどうして東大とか受けないのかと言われ、東大コースに変更することを求められるが、興味ないと断る。
予定通り、某地方国立大学のみ受験して合格。まわりが馬鹿ばっかりなのに失望し、それでも1ヶ月だけはまわりに合わせようと努力してみたが、それ意味なし、という結論に達する。その後、全く授業にも通わなくなる。東大とか受けてればよかったのかなぁとか思ったが、仮に東大受かって行ってたとしても、同じく失望しただろうと自分を納得させる。
大学在籍3年目くらいに、学科の教授に呼ばれ、なぜ授業に出ないのかと聞かれ、そもそも大学は自由に勉学に励む場所であるはずで、だから、自分で勉強してます、と答える。大学在学5年目くらいに再び同じ教授に呼び出され、そろそろ単位を取らないと卒業できなくなると諭される。前回と同じく、授業に意味なしと答える。退官間近だったその教授は、遠いところを見る目つきになって、わたしも、最近になって、大学のあり方に疑問を感じ始めてる、とか告白される。何か、申し訳ない気持ちになったけど、あなたはあなたで、俺は俺だと、自分に言い聞かせる。
学校教育というのは、義務教育だけに限らず、人のクリエイティビティをいかに磨滅させるかしか目指していない。国家にとって管理しやすいように、国民を製造する工場に過ぎない。日本は特に、製造に関しては、品質一定に長けているから、その国民工場も、同質性管理に関しては優れているはずだ。
われわれ諸個人は、市民ー国民-法-国家という位相だけでなく、個人-家族-血縁-民族という位相をも同時に生きている。前者が、個と一般という回路であり、後者が、個と普遍という回路である。個と一般という回路は、水平に展開し、個と普遍という回路は、縦に展開する。
uniqueは、ユニーク=変わり者=劣ったものという意味ではなく、唯一のもの、である。universeは、もちろん宇宙だが、本来は、一にして全体であるものの運行というほどの意味であろう。ここには、個と普遍をつなぐ回路が見いだせる。
夏目漱石が、その晩年、「則天去私」と書いた。そこに宿命と諦念や無常感のようなものを読み込むことは、間違いである。個人史における過去を徹底的に抉り続けた漱石が、宿命や諦念に陥るはずがない。そもそも、講演で「私の個人主義」とか「自己本位」とか言ってる人であり。そもそも精神的に病んだ自らを治療するために小説を40代に入ってから書き始めた漱石であり。時代の先兵として国費で海外留学までしておきながら、留学先のイギリスで英語の勉強ではなく、「漱石発狂す」という新聞記事が出るまでに、自分の存在根拠、という問題を追い詰めようとした漱石である。時代の先兵にいながら、そこから主体的に落伍して、社会的に劣ったと思われていた新聞小説の世界に身を投じた人である。
漱石は、おそらく、臨死の状態で、自らの過去の総体を見たのだ。いわゆる過去が走馬燈のように、である。
漱石は、小説家である。だから、自らの過去の総体(具体的には、おそらく、映像の連鎖として見たと思われるが)に、必然的なプロットを読み取ったはずである。自分が抉り続けた先に存在する、それ、を、見た、のだ。
則天去私と書き付けた時、その閉じた円周の外部に存在するのは、漱石の魂である。則天去私という図を成立させる地としての魂。