子供や誰かに、なぜ人を殺しちゃいけないの? と聞かれて即答できるかな?

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即答できるかな?

なぜ人を殺しちゃいけないか。答えは単純である。自分が殺されたくないから。

じゃあ、自分が殺されたいと思ったら、殺してもよいのか? という反論が予想される。それに対する返答は、もちろん、いいんです、である。てなことを言うと、憤る人がいる。顔を真っ赤にしてね。で、こういうふうに説明する。自分が殺されたいと思っている人間は、まず、もっとも身近な他人としての自分を殺すはずである。自殺とは、己による自分という最も身近な他人をす行為=本来的な他殺であるから。そして、自分以外の他人を殺すといういわゆる殺人は、その本来的な殺人行為(=自殺)の堕落した形態であるにすぎない、と。

殺人を犯した人間にとって死刑とは、だから、懲罰を意味しない。基本的には。懲罰を意図するならば、生き地獄を味わわせるために生かすべきである。また、人類の進化史・意識の発展史という観点からは、生き改めさせるチャンスを与えるべきである。類の行動パターンの累積過程・類の学習行為という観点から(これをカルマや解脱と言い換えてもよいだろう)、生き改めさせるチャンスを与えるべきである。

進化の次のステージの扉をあけるためには、そこまでに死屍累々の試行錯誤の累積が必要である。われわれは、屍を乗り超えていかねばならない。死んだ奴はそこどまり。われわれは、それを乗り超えていかねばならない。そう意識しないとしても、われわれはそう行動しているが。

無生物から生物への進化の過程においてとんでもない緊張状態におかれた生物は無生物状態へと回帰したいという欲望を持つとフロイトは仮定したと思うが、無生物から生物へと進化したのは、そう意欲したからであり、したがって、生物は死への衝動なぞ持たない。フロイトは、たんに、現実に生きる人間として不断のストレスにさらされていた自分の気分・情動を対象に投影しただけにすぎない。おそらくね。

われわれは、死ぬ。毎晩、象徴的な死としての眠りとして。そして生物学的意味での1回限りの死を。意識の発生も、その消滅も無限定であることにより、その空白を埋めるために、過去方向には始原、未来方向には目的が表象される。そしてその表象から、なぜ生まれたの? なんのために生まれたの? 宇宙の始まりは? 宇宙の果てはどうなってるの? などなどの一連の問いが派生する。そういうスキに、スピリチュアリズムや新興宗教・カルトが入り込む。空白を埋めてくれる安堵感の代償として、金銭を巻き上げるという構造。Give & Take

意欲すればよいのだ。真に意欲すれば、進化できるはずなのだから。

最近、突然、金縛りにあって、驚いた人が何人かいるのではないかと想像する。また、昔よりも金縛りの頻度が増している人がいるんじゃないかと思う。金縛りとは、いろんな説明があるけれど、つまりは死後の先取りである。意識の空白を埋めようとする意欲の具体的現れの一つ。われわれは意識せずにそう行う。

テレビの視聴率が落ちるのも、CDの売り上げが低下しているのも、選挙における投票率が悪いのも、無党派層が大量にいるのも、同根。単一のものの大量生産・大量消費の時代は終わっている。科学が細分化していき袋小路に陥るのも同根。群れずに個に徹するための必然。

フランシスコ・ザビエルを先兵とする西洋の東洋に対する侵略(近年ではアメリカによる占領・愚民化政策の続行)は成功したかに見えるが、逆に、進化の次への扉をより早く開く結果に終わる、だろう。われわれにとっての課題は、西でも東でもなく、天に徹することができるかどうか、である。これは予言ではなく、地球の自転ほどにも明白で動かしがたい事実である。

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